しあわせになってやる、という決意をした話

 

世界でいちばん大切だと思っていた友達を、失ってしまった。

とかいうと大げさ。ただ、嫌われただけ。いや、本当はずっと前から嫌われていたけれども、その陰口に今さら気付いただけ。

ただそれだけ。で、割り切れない気持ちがある。

 

仕事と友情が混ざってしまうのは、大変よろしくない。私はアルバイトしていた会社に採用になり、正社員として働くことになった。アルバイトとしての働き方は、いまの立場で働くにあたっての違和感を生み出した。友達とは、働けないんだ。

果たしてそうか?

友達と働けない理由は何だろう。仕事を仕事として割り切らなければいけない理由は?個人的な話をしない関係が好まれる理由は?

きっとその答えはたくさんあって、きっとそれらは正しい。

私はそれができなかったんだ、と思った。

 

今は、会社は同じだが違う拠点にいる。あのままの関係を続けることはできなかった。新しい場所では、嫌われないようにしよう、と思った。

わたしは、自己肯定できなくなっていた。こんな奴と働くの嫌だろうなあとか、どうしてこんなこともできないんだろうなあとか、そんなことをぐるぐると考えてしまい、眠れなくなっていった。

新しい場所は、わたしの居場所になってくれた。

それでもいいよ。そのままでもいいよ。と、存在価値を認めてくれる人たちと働く中で、わたしはいつの間にか自分を認めることができるようになっていた。

それ以上に、今まで自分の欠点と言われていた部分もとてもとても薄くなったように思う。後輩から「いつでも気さくですね」と言ってもらえた時、心から嬉しかった。今までの私は、それができなかったんだ。

 

自分のコンプレックスを隠すためにプライドはどんどん高くなって、誰かが褒められている場面では「お前はダメだな」と言われているような気がしてしまって、新しく関わる人に「自分はダメな奴」と思われたくなくて、変化を受け入れることができなくて。

楽しい、と言っていても、苦しかった。笑っていても本当は泣いていた。自分のずるさや汚さで自分を傷つけていた。でも、今はそうじゃない。

 

ダサくてもバカでもうざくてもダメな奴でも別にそれでいい。そんな私でもできることがある。

 

わたしは、誰かに認められることで、自分を認めることができて、自分も誰かを認めることができた。わたしは、わたしの歪んだ認知に終止符を打った。だからそれを気付かせてくれたすべてを抱きしめて生きていく。「友達」でも「仕事」でもない、「人」として「人」に向き合う大切さ。「人」という重み。

わたしのことをきらいになった友達を、きらいになってしまったこともあった。でも、それでも今は、好きだと思う。自分のことを嫌いと言う人がいても、好きだと言ってくれる人もいて、自分もいまの自分が好き。だからもう、それでいいじゃんねと思う。

 

わたししかわたしのことをここまで愛せない。両親も友達も恋人も同僚もしらないわたしまで、わたしは愛することにする。

アイデンティティ形成が不十分でも、自尊感情がどんなに低くても、それでもぜったいに幸せになってやる。